記事: Life in a Cup :A Journey of the Senses

Life in a Cup :A Journey of the Senses
Part03 「感性の旅」の果てに 佐藤 優貴
「暮らしに息づくコーヒー」をテーマにお届けしてきた本コラム。ここまで、日常生活のなかでのコーヒーとの向き合い方を考えながら、自宅でコーヒーを美味しく淹れるコツをお伝えしてきました。
コーヒーを淹れる際にもっとも重要なのは「どれだけ均一に抽出できるか」ということ。たとえば豆の保存方法がよくなかったり、グラインダーの粒度がバラバラだったり、あるいは注ぎ方にブレが生じたり──。そうした乱れをできるだけ取り除くことは、コーヒーの「個性」を楽しみ、自分にとって美味しいコーヒーを探すための基本/前提です。
そのうえで、ハンドドリップによる抽出は、挽き目や湯温、湯量、投数など、さまざまな要素が絡みあう作業です。
つまり、それだけ創意工夫のしがいがあり、同時に、自分の感覚や行動がそのまま味わいに反映される営みでもあるのです。
多種多様な味や香りをもつコーヒーそれ自体の特性と、「コーヒーを淹れる」という行為の奥深さ。コーヒーが、身近でありながらも、高い趣味性をもつ飲みものであるゆえんは、その両面にあるのでしょう。
さて、第三回目となる今回はふたたび第一回の冒頭に立ち返り、コーヒーをとおした/に対して働く感性のあり方と、それが私たちの暮らしにもたらすものについて、抽出テクニックやシチュエーションなど、より具体的な例とともに考えてみたいと思います。

日常に寄り添うコーヒーの淹れ方
日常生活のなかで、あなたはどんなとき、どんなシチュエーションでコーヒーを淹れるでしょうか。朝起きて必ず淹れる方もいれば、作業のおともに、あるいは、夕方や夜になってリラックスするときに淹れることもあるでしょう。
シチュエーションや気分、あるいは季節や天候、時間帯など、そのときどきで飲みたいと思うコーヒー、もっといえば、「美味しい」と感じるコーヒーは、じつは変わってくる。私はそう思っています。
それどころか、私はコーヒーの選択によって自分のコンディションや気分を把握することが頻繁にあります。自宅にはサンプルや焙煎初バッチのゲイシャが何種類もストックされており、焙煎が浅すぎたり深すぎたりするものもあります。そのなかから深煎りのものを選んだときには「自分は落ち着きたいのか?」と本を読んだり、浅煎りの場合は出かけたり、コーヒーを起点に次の行動を決めることが多いのです。
自分はいま、どんなコーヒーが飲みたいのか? 日々の暮らしのなかでコーヒーを淹れる前にすこし立ち止まって考えてみましょう。理想とする味に向けて、豆を選んだり、抽出に工夫をくわえたりすることは、あなたが自分の感覚を見つめることにもつながるはずです。
たとえば、雨の降っている休日。活動的に過ごすよりも家のなかでゆっくりしたい。そう感じたとき、どんなコーヒーを飲みたいですか? あるいは、仮にここまで用いてきた「どっしり・濃厚」「すっきり・爽やか」の二つにわけるなら、どちらがよいでしょう。もちろん人によって違うと思いますが、私だったら「どっしり」のほうを選びます。
もし「どっしり」としたコーヒーが飲みたければ、焙煎度だったら深煎り、品種だったらカスティージョやパカマラ、プロセスでいえば(ウォッシュトよりも)ナチュラルのほうが向いています。
たとえそうした豆が自宅になかったとしても、質感や口当たり(あるいはさらにビター感まで)をしっかりめに抽出すれば、イメージする味わいに近づけられます。
口当たりや質感は、液体に溶けだしている食物繊維や脂質の量と関係があります。そのため、挽き目を細かくする=細胞を壊すことが、もっとも簡単なアプローチといえます。
しかし、それだけでは苦味やネガティブな要素も抽出されやすくなってしまいます。そのため、お湯を注ぐタイミングを早めたりトータルタイムを短くしたりすることで、バランスを整える必要があります(前回の「抽出を時間軸で捉える方法」を思いだしてください)。また、湯温を低めにし抽出効率を下げるのも有効です。
「どっしり」としたコーヒーを飲みたいときは、挽き目を細かくすると同時に、 過抽出にならないアプローチをとる。
まずは難しく考えず、このふたつをセットで実践してみてください(ちなみに、挽き目を変えずに HARIO V60 MUGENのような、リブがなく湯抜けの遅いドリッパを使うのもひとつの方法です)。

では、反対に「すっきり・爽やか」なコーヒーを飲みたいと思うシチュエーションを考えると、どうでしょうか。たとえば晴れやかな朝に開放的な気分を味わいたいとき(先の例に従うなら、雨の日でも気分を上げたい日もあるでしょう)。暑い日には、柑橘系の爽やかなコーヒーが合うような気もします。
あるいは、「すっきり」とは、風味(フレーバー)や香り、酸味がはっきりと感じられるコーヒーのことです。焙煎度は浅煎り、品種でいえば華やかな香りをもったゲイシャ種など。澄んだ味わいのものが多いので、私はひとりでコーヒーの味わいに没頭したいときには「すっきり」としたコーヒーを楽しみます。
抽出は、基本的には先に取りあげた「どっしり」とは反対の考え方をします。挽き目を粗くして、抽出を早めに終えることで、苦味よりも酸味にフォーカスする条件を揃えます。湯温は浅煎りであれば高めに、深煎りは低めに設定します。また、ドリッパーも V60 MUGEN よりもリブが多く湯抜けの速い V60 のほうが適しています。
そこからバランスを整えるために意識するのは、中盤以降に抽出されやすくなる甘さや質感をどれだけ引き出すかです。トータルタイムで調整してもよいすし、トータルタイムを変えずに注ぐ回数を増やすとビター感は出さずに質感を増すことができます。
簡単にまとめてみましょう。便宜上どっしり/すっきりにわけたものの、要は抽出の工夫とは「酸味と苦味のバランスや質感をどのように整えるか」なのです。理想とする味をイメージして、抽出の条件を変えてみる。そのようにして、日々のなかで工夫を繰り返すうちに、豆の特性や状態にあわせて味を調整することもまた、できるようになるはずです

五感とコーヒーの関係
ここからは、抽出の工夫から離れて、べつの角度からもコーヒーと私たちの感覚についてみてみましょう。
まず考えてみたいのは、朝起きたとき、私たちの味覚はリセットされて敏感な状態にあるということです。そこから、なにかを食べたり飲んだりするうちに、味覚はどんどん鈍くなってゆく。
コーヒーといえば、カフェインの効果もあいまって、朝や昼間に眠気覚ましとして飲むイメージが強いかもしれません。しかし、たとえば嫌気性発酵がくわえられていたり、ワイニーなニュアンスをもったコーヒーは、朝に飲むにはすこし重たく感じることがあります。いっぽうで、夜になればなるほど味の弱いコーヒーは物足りなく感じてしまうため、発酵によって味が増幅されているコーヒーは夕方以降に飲むのにちょうどよいのではないかと思っています。
それこそ発酵によってアルコールのニュアンスが加わることや、複雑な奥行きが生まれることもふくめ、お酒のように楽しめるコーヒーもまた、世のなかには存在するのです。
もうひとついえるのは、「味わい」は味覚以外の感覚の影響も大きく受けるということです。
視覚であれば、カップの色によって味わいが変わり、たとえば黄色ければ酸味、ピンクは甘み、黒は苦味をそれぞれ強く感じるといわれています。また、照明や光が強いと味も強く感じ、飲む量が増えるという研究結果もあります。
あるいは、聴覚・音との関係についても研究されており、周波数が高い音を聴きながら飲むと酸味を、低い音だと苦味を感じる。さらに、金管楽器は酸味、木管楽器は甘みを感じるなど、楽器によっても違うそうです。
私は、自宅で、どういう組みあわせがいちばん美味しく感じられるだろうとひたすら試しています。カップは頻繁に変えますし、周波数ジェネレーターのアプリを使って、何ヘルツで美味しく感じられるかを探ったりもしています(笑)。
それはマニアックすぎるとしても、自宅でコーヒーを飲む環境をさまざまに変えてみると、「いつものコーヒー」がまったくべつの「新しいもの」に感じられることがある。それはまちがいありません。
私たちは、過ぎ去ってゆく時間に追われ、「代わり映えしない日常」を生きているような感覚に囚われることがあります。それはきっと、コーヒーの味わいにかんしても同様のことがいえるはずです。抽出の仕方や環境がつねに同じであれば、そこで働く感性もまた「いつもと同じ」になってしまうかもしれない。たとえば、カップやBGM、あるいは自宅内でも飲む場所を変えてみるのはどうでしょうか。室内と屋外でも味わいは変わるはず。
コーヒーと環境の組みあわせに変化をくわえることは、五感すべての感覚に意識を向ける機会をつくることです。コーヒーをとおして、日常のなかでは意識することのできなかった新たな感覚を発見できるかもしれません。

「感性の旅」の果てに
ところで、ガストロノミーを世にひろめた人物のひとりであるブリア = サヴァランは『美味礼讃』のなかでこんなことを言っています。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」。
「食」が人の価値観や社会的・文化的背景を表すものであることを示した名言ですが、私はコーヒーの味わいや評価にはそれが明確に表れると思っています。
たとえば北欧と日本の焙煎傾向はまったく異なりますが、それは北欧は寒く果実が育たないため未成熟な酸味への耐性が強く、いっぽうで日本は酸味耐性が低く、甘さを好む文化だからです。あるいはCOEのような、世界中から審査員が集まる品評会でも、出身地域によって評価が異なることをはっきりと感じます。
このコラムでも繰り返しているように、たしかに「美味しさ」には正解はなく、味の好みはそれぞれです。しかし同時に、誰かと「美味しさ」を共有することもできる。そのとき私たちは、互いに、その背景にある文化や価値観を共有しているのです。
そうした意味もふくめて、私は単にコーヒーの味だけを楽しむのは、どこか表面的なことのように感じます。大切なのは、美味しいかどうかではなく、その味に至るまでのストーリー。何をもって豆を選び、どんなふうに抽出し、どんな環境で飲むか。日常のなかでコーヒーに対して/をとおして、どんな感性を働かせるか。「感性の旅」の旅路そのものを楽しめるようになって、ようやくコーヒーを楽しめているといえるのではないかと思うようになりました。
遠く離れた地でつくられたコーヒーを美味しいと感じることで農園への愛着を抱き絆を感じるように、「感性の旅」の果てに、きっと私たちは世界とのつながりのようなものを感じることができるのではないかと思うのです。私にとってそれは、コーヒーが植物であることの実感や自然や神とのつながりだったりもします。
「暮らしに息づくコーヒー」がもたらしてくれるのは、そんな、あなたにとって世 界を豊かにしてくれる体験なのかもしれません。







